2013-08-23

 戯曲を高く評価し熱中していたのは三島由紀夫だけど、私はその作品をひとつたりとも読んだことはないし、シェイクスピアゲーテやダンテのものにも触れたことはない。三島については『金閣寺』を半分ほど読み、『文章読本』を流し読みしたことがあるくらいだ。彼の著作の一覧を見てみると、その数はかなり多い。そのうちひとつすらまともに読んだことがないなんて、ううむ。谷崎潤一郎も、夏目漱石も、読んだと言えるほどは読んでない。国内の文学すらわからないのに海外文学に興味持ってもその価値を……。好きなものを楽しめばいいのだ。余計な判断は自由な行動を阻む。

 本当に楽しいと思えることがない人が趣味的な行動をするとき、その動機になるのは精神的な圧迫だろうか。○○しなきゃ、という焦りは、周りにそれをしている人間がいるからこそ感じるのであって、自分の本心から湧き出した動機ではない。自分がひょんなことから思いついた行動でも、どこかで受動的な、あの人がやっているから自分もやってみるか、というどうしても能動さに欠けるものを感じてしまう。しかし能動か受動かという線引きは難しい。動機というのは両者の複合的なものだからだ。だからわずかに受動性が含まれていたからと言って「これは私の本心からやりたいと思ったことではないのだ」と意気消沈してしまうのは、合理的な判断とは言えない。精神衛生上良くない。

 どうしてもピアノの音が好きなのだ。どうしよう。ジャズピアノが聞きたい。昔も書いたかもしれないけどクラシックではドビュッシーのピアノが好きだ。ショパンでもいいけど、ショパンは真面目な上品なイメージがあってそこまで強く好きにはなれない。ドビュッシーの暗い雰囲気、どっしりと重いテーマが含まれている感じが好きなのだ。といっても、そこまで聞いているわけでもなく。

 好きだと言い張るのは、とても勇気が要ることだなと思う。趣味の話だ。

 ゆっくりと自分と向き合うことができなければ人は暴走して壊れてしまうし、向き合ったとしても次第に蝕まれていく。うーん。

 

 海がすべての生物の母なる存在だと言うなら、遺灰は海に撒いてほしい。それは私なのだろうか。火葬され骨だけになった私や、灰になった私は、誰なのだろうか。人は何をもって人なのか。結局そういうことになってしまうのだ。感覚器官のどれが欠けたとしても私は自分を私だと認めないだろう。だから体が死んだとしても脳が生き残れば満足するか、と聞かれれば、絶対に是としない。これから歳を取るにつれ、いろいろな部分が衰えていく。目は老眼が進み、耳が遠くなり、体は鈍くなり、世界の解像度は下がり続ける。恐ろしい。私は今を楽しむことができるとしても、常に将来への不安を抱えている。老いや死の訪れが遠い未来のことかもしれなくても、私にとってはすぐ眼前にある。意識することで私は常に人生の方針の最適解を計算し続ける。ハイデガーの投企そのままだ。被投性と、先駆的覚悟性。実存主義もきちんと追っておくべきかもしれない、私の考えてることに近いと思うし。これ多分前にも書いてるな。もっと本読もう……。

 

では。

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