2013-09-12

  山道は多くの操作が要求されるので楽しかった。

 聞き取ることのできる声の速さには限界がある。喋る本人も判別できなければ意味がないから、発される声の速さにも限界はある。頭でイメージすることのできる速さには限界があるのだろうかと考える。フラッシュ暗算なるものが巷には存在するけども、そのスピードで処理を行うことが人間の限界なのだと仮定すると、そこそこ早い気がする。速読と呼ばれる技術を持つ人の情報処理速度も気になる。あれは取捨選択の勘の良さを磨く練習だろうと何も知らずに決めつけているのだけど、そうでもないか。私だって中身のないビジネス書だったら数分で内容を把握することくらいできる。作りの精巧な小説は難しい。哲学書も難しい。内容の濃いものほど早く把握するのは困難になる。当たり前のことだった。

 言葉にすることで思考が安定する。ほとんどのことがそうだ。私たちの思考は言語によって成り立っていて、言語に囚われている。ある種の自由は言語の獲得によって保障される。言語による思考の規定は長所とも短所とも言える。様々に評価できる。さらに逆説的に言えば、共同体内の共通言語によって共同体の思想や志向が統一されるということになるか。

 こういうわかりきったことを書いて何の意味があるのだろうと考えているものの、思考の安定以外に意味はないのだ。作家は往々にして「書かないと思考が進まない」と書く。言い過ぎだとも感じるがあながち間違っていない。そんな感覚。

 

 適性検査の性格判定に対する違和感について。まず大前提として人の性格をわずか5つほどに分類してしまうことへの問題視。しかしこれは教習において円滑に傾向を把握し反省に生かすためだと思えば教育効率的な視点からやむを得ないし、むしろ最適化されているとも思う。眠いので続きは後で考えよう。

 

では。

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