2014-03-01

 3月。昼過ぎに起きて夕方から映画を見に行って夜は高めの回転寿司に行きたくなって堪能してから(後でお金がなくなって後悔するのを予感しながら)本屋に寄って帰ってきた。年度明けの予定を立てたいのだけどシラバスが公開されないせいで全く進まない。去年進級が確定したのが3/15で少なくともそのあとシラバスを確認したみたいだからまだ先みたいだ。

 それで、けっきょく自然言語を吐き出すようにするには完全に人間を模倣した個体があるのが理想だなと思ったわけで。人間の細胞が60兆個?あるとして、細胞をカプセル化してオブジェクト指向的にくっつけて60兆個で活動させればいいのかな。でもそこまで簡単じゃない。それぞれの細胞がどのように接しているか。どのように活動しているか。すべての動きを演算できるほど、今の計算機技術は優れていない。

 本当の本当に人工知能を目指すのなら、人間そのものを「データとして」再現することを考えなくちゃいけない。でも、そう、いったいどこまで分解したらデータとしての人間を生身の人間と同じように構築できるようになるかと考えたら、おそらく原子レベルまでの分解能は必要だ。本当に今それができるのか? 何度も言うけど、できない。無理だ。

 現実の側では、物質は物理法則に従って動いている。データの側では、データは演算によって動かされようとしている。この差が埋まらない。現実世界でまったく自然に動いているものを、コンピュータで意図的に再現する。明らかに情報量が違いすぎる。想像してみようとして絶望的な気分になった。そもそも比較の次元が違う。このあたりをもっと冷静に考える必要がある。

 同じことを三回も書いてしまったけど、これが現実で、受け入れるしかない。前提として、人間が発するような自然言語は現在の技術では再現できない、とする。どんなに多くの会話を学習させても、あらゆる辞書すべてを暗記させても、言葉を発する知性の側が「生物学的な知性」を持ち得ないのだ。人工知能は人間が扱うような仕方で言語を扱うことができない。

 ここから主題となるのは、「人間の生体を再現しないで言語活動のみを電子的に模倣したとき、それは人間といかなる部分で異なっているのか」という点か。つまり、今のままあくまで情報科学として自然言語生成を追究していったとき完成するものはなんだろうか、ということだ。完成というか、いいところまでいったとしてもいずれは「言語の人間らしさ」みたいなものに行き当たることになると思う。チューリングテストをどれだけクリアできても、その言語機能には体がなく、心がない。知性とは呼べない。人間はそれで満足するだろうか。絶対にしない。じゃあもう一体ここで想定している知性とは何なのだという話になる。人間とそっくりそのまま同じものじゃないか。体がなくても知性は存立できるのだろうか。精神的なものや心理的なものの独立を認めるのか? 身体がないような人間の心を機械が再現できるとしたら、それこそ驚きなのだけど、いったい人間の意識とはどこまで身体と密接に関わっていて、いかに身体から独立しているかのように振舞っているか? 偽りなのだ。心が存在しないとは言わない。でも心の存在は脳内の物理的現象によって擬似的に発生しているものだから、脳と同じものを作って計算できないと仕方ない。…あれ? それくらいならできるのかな。頭がこんがらがってきた。

 うーんやっぱり私は心や意識の哲学に進むのが良いみたいですね、などと。もしくは脳科学かなぁ。

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