2014-06-15

日記

 早めに起きて試合見て前日に引き続きワークショップに行った。心の哲学の過去と未来というテーマの話だった。分析哲学の人は哲学全体に対しては悲観的だなぁという印象。柴田.正良さんが重要な指摘をしていて(これまでさんざん言われていることだろうけど、直らないしどうしようもないことか)、個人的には全面的に同意だった。騒いでも仕方ないけど。うだうだ話を聞いていて、英米系の哲学をやっている人が大陸系と一緒にされるのは勿体ない(ここまで書いてしまうと非常に烏滸がましいし自己肯定紛いになってしまいかねないか)とは感じた。
 たとえば論理学をかじった人は情報学的・工学的な証明論をやらないと実用に寄与しているとは言えないし、この意味では学術的価値は他の人文科学と変わりない。現代的な形而上学も同じ。これらのことは、考える能力としては非常に大切だから、むしろ技能として認めるような位置づけが必要だろうという話もある。しかしこうした技能は、理系から言わせてみれば大前提であって、数学やっている人は論理的な構成も概念的な厳密さも備えているし、情報科学やっている人だってそうだろうし、数学を基盤にしている時点である程度の質が保証されているのは間違いない。だからろくに数学をやらない人文科学の人々が哲学的思考には技能として価値があるといっても、限度があるというか、理工学系から見れば「はいはいそうだね」で終わるだけになる気がする。念を押すけど、これは単なる能力や技能としての話。
 じゃあ科学基礎論なり分析的な哲学の価値はどこにあるのかといえば、自然科学における曖昧な領域やら既知の領域やらについて突っ込みを入れたり線を引いたりすることだろうか。科学哲学の役割としての、という。たとえば自然科学が扱う概念的なレベルの話だったり論理実証主義がどうとかいう話なら哲学者がやることなのかもしれない。ただそれは専門の研究者が考えることができる話だし、考えなければならない話だ。それができていないことがあるというだけで。
 もう少し具体的な、専門が細分化されて外から見ても何もわからないような事柄については、人文科学の人々が(多少齧っているとはいえ)あーだこーだ口を挟んでもどうしようもない(それはもはや「自然科学批評」でしかないのではないか)。「人間」や「世界」についてはまだまだわからないことが多いから哲学者が口を挟むことが多いけど、それもやがてはなくなるんだろうなぁと思う。だから結論としては科学哲学の領域でしか(科学基礎論・科学哲学的な)哲学は生き残らないような気がする。話がこんがらがってきた。列挙するか。

手法、あり方として
・論理的思考ができる→基礎教育として必要だけど先端の研究者にとっては当たり前かも
・内省的な活動として→必要な人には必要
・概念こねこね→分野によるがドゥルーズみたいなことになっても意味がない
学問的対象について
・科学哲学的な追究→必要・必然的に起きる、哲学がやらないといけない気がする
・専門分野における曖昧さを考える→(深化するにつれ)専門の人しかやれなくなる
形而上学→(乱暴だけど)認識論的には脳科学、存在論的には物理学がやる、あと言語学
・大陸哲学→(乱暴だけど)文献学と認識的な啓蒙活動みたいな印象(文学に近い?)
・自然科学と社会との調停→応用倫理かな、たとえば自由意志や人格概念の話

んで結論
・必要な人にとっては必要
 認識的に内省的な態度を与える機会や個人の思想の支えとなるものとして必要とされる場合。ニーチェだの現象学だのことを考えながら言ってる。必要じゃない人にとっては大前提のことが、必要な人にとっては大前提じゃなかったりする。そういったことを補う役目。
・科学哲学としては必要
 でもできれば科学者も考えるべきだ。
・人間など未解決の対象の曖昧さを包括する立場としては必要
 そのうち消える。でも完全には解明されない特権的な価値を持つ存在として人間を固持しようとする立場は残るかもしれない。そこまでいくと次に挙げたような倫理的な問題か。
・応用倫理としては必要
 人間が社会を維持するにあたって考えなきゃいけないことは多い。
・文献学としては必要
 歴史学の価値と同じ
形而上学としては?
 必要なのか? よくわからない。哲学と呼ばれる学問としては残らないのではないか。あるいは、専門的すぎてついていけないことについて下手な考えや概念ゲームをするための受け皿になるだけではないか(これは大いにありうる)。ああそうか、子どもの難問みたいな。

あれこれ散漫に書き殴っただけになってしまった。終わり。

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