2014-06-24

日記

 昼過ぎに起きて定食屋で昼食を食べて喫茶店で本を読んで夕食を食べに行ってゲーセンに行ったりして帰ってきた。普通の日。大学にはあんまり行く気にならなかったので行かなかった。そういえば私はこの日記に食事をしたことはちゃんと書くんだな。それほど心理的に大きな位置を占めているのだろうか。確かに少し面倒だなと思うことはあるのだけど、そこまで抵抗があるわけではないのに。消費行動だからだろうか。
 で、うだうだと卒論の計画を考えていて、やっぱり哲学っていったい何なのだということになって、またうんうんと考えこんでしまっている。10日ほど前に書いたことの続きみたいなものだ。あくまで私個人の感覚的な問題が入り込んでいるので、学問的に正しい提言を意図するものではない。(とてもとても不勉強な)私が哲学をどう捉えているかという話。
 まず前提として、何というかとても、世界や事柄はただありのままにあって、「あれは何だ」「これはどういうことだ」と学問的対象にしたとしてもいずれ解明されうるものだ、という考え方に立つ。世界は物理学的な存在者によって合理的に成り立っていて、すべてはそれらの組み合わせで説明される(今の時点で解明できていなくても、原理的には解明可能であると信じる)。ここでの「世界」とは、人間が知りうる範囲、たとえば三次元的な宇宙全体だったり、人間が観測・解明することができる範囲を指す。
 そうしてすべてが説明され尽くしてしまうと、良くない問題が出てくる。私は現代形而上学の入門書でかじっただけの知識で、たとえば人間に自由意志は無いし人格の同一性は確保できないけど責任の帰属のためには必要だとかいう考え方を知った。概念的な存在者が排除されてしまう科学的世界観が発展し、精神らしきものは消えて、人間はたんなる物質と化してしまう。それでも人々が社会を維持するためには、人間は意思や人格を持っていなければならない。そして確かに人は心を持っているように見える。人には心があるんだよ、などとわざわざ言わなくても、人に心があることを誰も否定しない。心は脳のニューロンの発火が引き起こしてる活動の表出にすぎないなんてことを知らなくても人は生きていけるし、社会は動いている。分子や細胞の動きみたいに接触して化学反応して組織化してまとまりを作ってるのと同じだよね、なんて言っても社会はそこにある。そうなると、自由意志や人格やもっと言うと精神や心といったものを、社会に適合するように説明してあげる必要がある。脳を研究している場では「そんなことどうでもいい実態が知りたいんだ」という考えになったとしても、じゃあ人類誰もがそんな無機質で冷たい水に浸かっていたいかというと、絶対にそんなことはない。気持ち良くない。人の営みに適さない。
 書いていたらまた少し印象が変わった。書きたいことは一緒なので続ける。戸田山さんの言葉を使うなら「ありそうでなさそうでやっぱりあるもの」は、やっぱりあるわけないけど、ないと困るよなという話。私はこの対象を、先述したように人の精神的なものに絞って考えていたのだけど、今回感じたことの主眼は、あーたとえば意味とか真理とか知識とかいうのもそうだったかということだ。というよりも、物理的に存在しないものはすべてそうだったのだ。私は「とりあえず社会の維持に関わるような概念は確保してあげなきゃいけないよね、でもそれは倫理学や政治哲学の仕事じゃないかな」と、比較的狭い範囲で考えていた。でもそれだけじゃいけなかったのだ。というよりも、私が納得しきれない未練のあることについて、まだ考える余地があると思われた。やっぱ無駄じゃんではなく、でもあるにはあるんだし概念的構築物について考えるのも無益ではないよな、などと。そしてそれは情報概念のSF的な進歩やら発展やらを考える基礎付けになるのではないか。
 哲学は概念的なものを人間社会(この場合は自然化の「自然」でいいのかも)と調停することになる。調停とはつまり自然において合理的な説明を与えるということだ。ただしこの営為は自然科学的な学問研究とは少し違って(この違いについては科学哲学をもっと考えなければいけない)、実証的に議論することはできず、確固たる証拠が与えられることはない(概念的なものだから、実験的なデータなどといったものは存在し得ない)。どこまで行っても、うんそれがもっともらしい理論だね、という結論しか出てこない。ええと、でも、逆に言えば、哲学にできることは今も昔も似たようなことのままかもしれないとも感じる。そして私は、無益ではないだろうからこのまま考え続けてみたいな、と思う。要するに今日考えたことで、私は哲学に向かう態度を改めることになりました。
 サッカーが終わって眠気が来たのでここで終わりにしよう。

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