2014-07-03

日記

 早起きして英語やって、出かける頃になってどうしても日本語が読みたくなって近くの書店で夜戦と永遠の文庫版を買って少し読んだ。昼はモスで食べてから大学に行って卒業論文のガイダンスだった。なんとなんと学生1人ずつにたいして3人の教授の誰かがコメントしていく(事前に振り分けもせず1人3-5分くらいのペースで20数人見ていく)という、なんとも面倒な感じの作業を経た。もちろん他の人へのアドバイスは参考になるのだけど、ちょっと時間がかかりすぎてよくなかった(5限に出られなかった)。会のあとは学科の人と夕飯を食べて帰ってきた。
 で、私の計画概要はどうだったかというと、そもそも分析系というか英米系の教授が1人しかいなくて、その人はどちらかというとロックとかバークリーから始まってそのあたり(知らない)をやったり、あと立場として応用倫理的な分野で提言をしたりと、私の関心とはあまり被っていない。ということでコメントとしては「私はこのあたりはよくわからない(読んでもわからなかった)ので、君がきちんと読んでまとめてみてください」といったような感じだった。さもありなん。ミリカンをやります。
 全体の雰囲気としては、教授の専門に被るようなテーマ設定をしている人はほとんどいなくて、無難でもないしよくわからないところを突いてくるな?といったものが多かった。専門教育の賜物だろう。要は学部での教育はほとんど全く機能していないのではないか。学生があまり講義や演習に出ていないことからもお察しだけど。一方で真面目にやっている人はその思想家やテーマに忌避感をおぼえてしまったりするのだろうか。
 研究室のほうから特別に指示を出して学生にあれしろこれしろと面倒を見てくれることはなくて(そういうものだ)、あとは11月の題目提出まで各々頑張ってください、という形で終わった。曰く、3年の夏に参考文献を読んでおけよ、ということらしいが、指導するのが遅い。このあたりは行き届いていなくて、教育的な配慮はほとんどなかったと言っていい。しかしこうした配慮の無さでも学生はなんとかやりきってしまうから、不備(?)は顕在化せずに既存のシステムが学生の中途半端な能力に支えられたままになっているんだろうな、と(大学全体のシステムも含めて)思った。専門教育が始まるのが遅くても学生の能力ゆえに何とかそれらしい形が出来上がってしまうから、大学としても危機感を抱いたりしないのだろう。他の大学はここまでうまくいかないんじゃないかな、と教育的な配慮の差をこういったところに感じる。リベラルアーツの利点はあるのだろうけど、それは大学に入るときに選べるようにしておくべきだと思う。極端なことを言えば、学生にとっては回避する余地のない押し付けなのだから。

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