2014-07-27

日記

 夜暑くて寝付きが悪くて、朝食昼食挟んで夕方まで寝ていた。ありえん。夜は喫茶店行って勉強した。帰ってきてからは少し勉強してからロボットアニメ見ていた。

断片

 「いつ死んでもいいように」という心構えはあくまで心構えでしかなく、しかしそれ以上のものはない。自分が死んだ後なるべく他人に迷惑をかけないようにといくら身辺整理を重ねたとしても、超えられない限界がある。誰かが悲しむのを慰めることはできない。そう、死に相対して人ができることというのは限られていて、心構えはその中で最も大事なことだと思う。死に臨み、どうするかと求められるときに、個人は個人としての本質を決めなければならなくなる。人間としての本質ではない。哲学的な問いかけがしたいのではない。個人がいかに自らの生を全うしそして死を受け入れるかという「在り方」の問題が、たとえ「諦めなくても」、突き付けられることになる。

 長い夢が見たい。何かから逃げて日本海に面した町に駆け込んだ。親戚の家があり厄介になった。真冬のことだ。ストーブで暖まりながら礼を言った。狭い部屋に布団を並べて寝た。もう自分の住んでいた町には戻れないのだろうと悟り、子供が泣き出した。あの子は誰だろう。近くのマンションに住んでいたのかもしれない。連続性があっても脈絡のない夢だった。ただ何かから逃げていた。いつものことだ。でもたまに止まって休むことがあった。一息ついて食事をしたり睡眠をとったりした。常に走っているわけではなく、ときどき立ち止まって冷静になることができた。それでいいし、それがいいと思う。

 人と人の距離というものが避けられない課題だとずっと感じている。私はあなたの代わりになることができないし、あなたは私の代わりになることもできない。それは悲しいことだが、当たり前のことであって、騒ぎ立てても意味はない。ひとりで戦うしかない。ひとりがつらくなったら、誰かを頼ればいい。頼るためには自分が頼られなければならない。そのために何が必要か。少しは本当に誰にも頼らずにひとりで戦わなければ、誰かを助けるときに武器となるものを得ることができない。

 輪廻も転生もありえない。内的な人格の連続性は記憶に依拠している。朝起きて全てを忘れていれば、自分が自分だという実感を持つことができない。たとえ習慣や能力が残っているとしても、それを内省する記憶がないのであれば別人のそれとなる。人体を構成する分子、循環系とその瞬間の電気的信号を全て模倣して空間的に別の場所で再構成したとしても、そしてそれに部分的に失敗してたとえば片腕がなくなったり発話できなくなったりしても、記憶が連続していれば主観的には自分が自分として残る。ただし記憶のみを転移させる、コピーするというのは不可能に近いと思う。思うけど、できるかもしれない。いつだったかこんな話をしたっけ。その場合は翻訳すればいいのだと。ダメだ進歩してない。私は何も知らない。

 寝たほうがいいのにくだらないことを書きすぎた。ストレス発散みたいなものだ。

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