2014-09-10

日記

 昼ごろ起きて卒論の作業して夕方から大学行って夜は友達とご飯。大学近くの麺屋。そのあと帰ってきてポテチ食べてお酒飲んでた。
 日記にまいにち内容のある文章を捧げることを義務付けてしまうとどうせ続かない、と思ってここまで続けてきたのだけど(たぶん以前も書いたことです)、ここしばらく事実の羅列だけで、目的のない徒然とした文章を書いていないのが引っかかった。ので何か書く。何か書かないと言語野が縮退してしまうような気がする。数字の計算する脳みそも。あと全身の筋肉も。
 そういえば卒論の文章読みをようやく始めたのですが(今はR.MillikanのLanguage: A Biological Model)、私は英語を読むスピードがとても遅い。文字を追うだけならそれなりのスピードでできるのだけど逐一訳さないと意味が入ってこない。だから訳を書き下しながら読んでいるのだけど、そうするとかなり時間がかかる。下手すると1ページ読むのに30分くらいかかってしまう。30分なら20ページのものを読むのに10時間かかることになって、1日費やせるなら読みきれるペース。でももっと読むべきものがたくさんあって同じものに長々と時間を割く余裕はない。邦訳されている著作もあるのだけど、数は多くないのですぐ読み終わる(そのくせまだ読んでない)。日本語のものを先に精読したほうが良い気もするけど、言語にかんする記述を訳したものはそこまで多くなくて、だいたい目的論的機能主義あたりの説明に留まってる。だから時間がかかっても英語のものを読まざるを得ない。
 うまく行けば進学できる専攻の就職はそれなりに良いらしい。それなりに、というよりも、おそらく日本でトップクラスで良いと思う(士業を除いて)。で、逆に哲学科なんぞは少なくとも日本においてはトップクラスで悪いだろうから(でも史学や文学と変わらないか)、ざっくり見ると境遇は真逆になる。しかし私の興味の対象はあまり変わることなく、首に下げる看板が変わるだけ。複雑な気分。CSと哲学を隔てているのは研究の結実が実用的な形になるかどうかの違いだろうけど、それぞれの分野に従事している人の頭の使い方はほとんど同じ気がする。哲学やってる人(あいまいな表現)ならだいたいはプログラムを書くことを仕事できるはずだと思う。実際に兼業めいたことをしている人は多い。そんなことせずにアニメと哲学結びつけて論壇とやらに投げ込むのでもいいんだろうけど、食べていけない。正道としては(本当に正道なのかしら)大学教員をやるくらいしか生き残る方法がなくて、それはおそらく同期二十人ほどのうち一人二人も叶わない。ポストが少なすぎる。全国のすべての大学の哲学科の教員職の数を調べて、学生の数と比較してみればはっきりするだろう。そしておそらく、それが適正な数なんだろうな。教授職まで行くことができなさそうな人はさっさと見切りをつけてプログラミング学ぶか公務員になるかして生き残る術を見つけたほうが良さそう(でもいわゆるIT土方をメインに据えて副業で哲学めいたことをやるなど、できっこないか)。まず生き残ることが前提になっているのがおかしいというならそれでいいのだが、果たして本当にあなたは生に執着せずに死ねるのか。そんな人いるのか。いるかもしれないけど私は見たことがない。あるいは元より生きるのに困らないお金があるならば、何にも悩むことなく自由に考え続けることが許されるのだ。自由に考えるってなんだ。
 さんざん書いたが、「プログラムを書く」という能力は一体どういうものなんだ。論理的に思考できるかどうかだと言う人は多いものの、その意味合いは不明瞭だ。私だってプログラムが書けるか聞かれて「書けます」って堂々とは言えない。日本語は喋ることができますって言える。機械言語はできますとは言えない。それはなぜかって、やっぱり意思表示や伝達のために用いるのが自然言語であって、機械言語はそうではないからだ。ここには重大な違いがある。ある自然言語を発話できるのに読み書きはできないというのは学校に通えない国の子供たちなどにおいてはごくごく普通のことだけど、これは発話による意思表示ができることに言語能力の本質が置かれているからだ。ここで例えば「木通という植物の名前が読めるか」という問題が出されて回答できなかったとしても、私は日本語ができると主張し続けることはできる。読めない漢字があったからといってその言語が使えないわけではない。ここでいう「できる」は「泳ぐことができる」のできると同じように能力を指すものとする。だから読み書きと発話は分けて考えるのが前提にあるべきということになる。機械言語はすべてが読み書きで成り立っていて、意思表示の機能は持っておらず、事実を記述するための手段に用いられるだけだ。
 ここまで書いてよくわからなくなった。論理的云々の話をしたかったんじゃないのか。機械言語ってなんだ。プログラムは一体何を表現しているのか。手続きの羅列? 計算機の命令列? データ? 物理的な対応としてはそうだろうけど、もっと別の抽象的な何かを表現してはいないか。結局人間の認識を介在させた意味論を持ちだそうとしてしまう。仕方ないであるよ、機械言語は人間が作ったものなのだし。つまるところ言語と言われる所以はそこにあって、何かヒントが出てきそうな、んー私はもっと別の次元でものを考えたほうがいいのかもしれない。言語がなにを表しているかを問題にしようとして、形而上学で悩むような問題については一切考えようとしない。形而上学なんて言葉遊びじゃないかって思うし。存在論的なことを物理学者が議論するなら話を聞く気になるし、認識論的に切り崩すような話がしたいなら脳科学やら認知科学やらでいいじゃないか。こうやって真面目に話を聞こうとせず、何もわかっていないのに批判をするだけなのだが。よくない。
 そろそろ寝ます、おやすみなさい。読み返してみたところ、自分の文章のリズムの悪さに頭を抱えたくなった。読んでいて心地のいい流れってものが一切ない。困った。

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