2014-09-11

日記

 昼に起きて池袋の回転寿司的なお店に行って食事をして、夜まで家にいて寝たりゲームしたりテレビ見たりしてた。夜はだらっとゲームしてた。つまりー何もしなかったわけだー。
 過度な効率化が進むと人間が過剰に酷使されることになる。資源という観点から見れば人間は少ない費用で莫大な生産性をもたらすことができる。機械化は成熟しておらず、機械は人間と同じように細かい仕事をこなすことができない。人間だけが仕事をして、人間だけに全てが任される。社会は複雑になり、その網目に人間を縛り付けて、彼らが苦役に勤しむさまを眺めている。苦しめるだけではすぐに死んでしまうから、餌をやることも欠かせない。毎日一定のサイクルごとに働かせ、快楽を与え、また働かせる。彼らはそれが義務であり生活の手段であると信じている。労働を放棄する者は近親者の補助を受けて生き延びるが、やがてその小規模な共同体は子孫を残せずに死滅する。
 人間の社会をマクロなスケールで見つめてみることが多々ある。地図を俯瞰視点で見て、人の動きを想像してみる。個人は単純化して1つの点として表現する。たとえば乗り物、車は4つの点を囲んで移動する小さな円、電車は数百の点を囲んで移動する長方形の列。食料を運搬する車は点がひとつと栄養素の粒子を囲んだ円として移動している。色はない。真っ白な平面に、黒で単純化していく。住宅街では夜になると2,3つの点を1単位としてたくさんの集まりの行列ができる。朝が来ると点は分散してまた別の場所で他の点と集合する。そういったことを毎日繰り返す。人と食料の動きにだけ着目したり、エネルギーの動きにだけ着目したり、あるいはもっと単純に人だけの移動とそれを実現している道具にだけ着目する。それぞれは別々のレイヤーで実現されている。すべてを同一の平面に描き込もうとすると、それこそ現実の世界と同じものになってしまうからだ。決定論的な前提だからこそこういった「細胞の培養」や「蟻の巣」と同じ次元の抽象化がしたくなってしまうのだけど、これは最終的にどうなるんだというのがよくわからない。外因的な影響によって集団全体が死滅するまで一極集中への傾向付けが続くのかな。日本はこの観点から見ればおそらく世界で一番進んでいると思う。国家でも民族でもいいけど、日本という全体は、文明の興亡のとても良いモデルケースになるに違いない。滅びるところまではいかないだろうけど、有限な資源という問題から、おそらくある平衡状態に落ち着くことになると思う。100年くらいあとに人口やGDPの値としてはっきり表れるかなぁ。50年後だと下り坂であんまり良い雰囲気ではないと思うんだよね。100年経てば、よし日本もやっと安定期に入ったね、ということになるんじゃないかなと適当に考えたりする。私はそれまでは生きられないな。待ち遠しい22世紀。

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