2014-09-15

日記

 昼過ぎに起きて家を出ようと思った。来月の試験の勉強をしようと思って昼食をしながら下調べをした感じでは、参考書を通しで読むよりはいきなり午前2の対策から始めた方が良さそう。セキュリティ分野だから特にそうなのかもしれないけど、参考書を読んでいても、どの情報をどの単位でどれくらいの深さで頭に入れればいいのかわからない。んで午前2は過去問対策ありきだということなので、正直に過去問を解くことにする。解説が乗ってるような参考書を見繕って(どうせ千円前後だろうから)がりがり進めるのも手なのだけど今日書店に行ったくせに見に行くのを忘れていた。
 んで書店ではオースティンの『言語と行為』とサールの『表現と意味』を買った(金銭的に大丈夫かどうか非常に怪しい)。その後は喫茶店に行って『言語と行為』のほうを読んでいた。講義録だからか内容がわかりやすい。かつ、オースティンの言いたいこともよく理解できる。肯定的に理解できるというのは重要で、「言いたいことはわかるがそれは間違っていると思う」ような理解になってしまう内容は読んでいて続かない。そうやって自分が理解したいことだけ摂取するようになってしまうのは精神の堕落だ!と言えるのかもしれないけど、自分の考えていることに対しての直接的な反論でないものに真っ向から取り組んでも、無限に時間がかかってしまう気がする。もっと貪欲に広範に吸収する態度であったほうがいいのは確かだし、たとえば今日は分析哲学の棚の前で「言語哲学大全読んでないのはマズいのでは」と思って十分くらい逡巡してしまった。でも「知っていないとまずい話」よりも「自分の考えを補強修正するために必要な話」を優先すべきであり、今回の場合は明らかに言語行為論についての知識が必要だったので、上記二冊に軍配が上がった。
 卒論のテーマはミリカンの論についての批判と検討ということにしているのだけど、一番やりたいのは彼女の提示する言語観と意味論をうまく自然言語処理における言語分析と意味論に落としこむことなのです(まだまだまとまっていない)。というよりも、私の知る限りにおいての言語処理が、一昔前の言語学や言語哲学が抱えていた誤謬、すなわちオースティンが『言語と行為』で呼ぶところの「記述主義的誤謬(descriptive fallacy)」から抜け出せていないように見える、という点が重要だと考えていたりする。そしてこのことは自然言語処理の分野でも自覚され始めていて、池原『非線形言語モデルによる自然言語処理』(2009)で要素還元的な意味論を批判してゲシュタルト心理学的な/認知言語学的な非線形言語モデルに向かおうとしていることからもわかる。しかしいざ言語処理の分野で的確な意味論を確立しようとしても上手くいかないのは明白で、そうであるからこそ実用性のある統計的手法に依存してしまう、という現状がある(特に理系の研究においては、理論よりも何よりも実用性がなければ予算の分配がままならない)。では一方で人文科学の分野できちんとした意味論を打ち立てられるかというと無理な話で、実益には結びつかないし、限りなくそれらしいものを作り出すことしかできない。しかしその限りなくそれらしいものは、理論研究ができない自然言語処理分野に持ち出しさえすれば、それらしい成果を生むのではないか、とも思う。私の目論見はここにあって、けれどもうまくいくかどうかは怪しい。
 ここまで色々書いたことも、私が両分野の現状をきちんと理解しないままで考えたことなので、どうにも正確に事態を捉えられている気がしない。自然言語処理の方はそこまで深くないとは思うのだけど(広く浅い印象がある)、言語哲学はさっぱりわかってない。ちなみに心の哲学だの何だの言っていたのはやめにした(あまりにも馬鹿馬鹿しくなってしまった。誠実な態度ではないとわかっているのだけど、まともに話を追う気にならないことが多すぎた)。焦らずに今はオースティンとサールの言いたいことを掴むことから始めよう……。でもサールの言うことあんまり鵜呑みにしたくないからどうしようって気持ちもあるんだけど(心の哲学におけるサールの言い分は頭をひねりたくなることが多かったので)。ミリカンに戻ったらデネットもきちんと読まなきゃいけないけど明らかに時間足りないよね。
 Millikan RG 1993 White Queen Psychology and Other Essays for Alice (Cambridge MA:
MIT Press)というタイトルにとても惹かれてしまった。日本人はアリス系のタイトルに弱い。5000円かけて海を渡ってもらうか迷う。哲学系の洋書扱ってる書店とか行ってみればあるのかなぁ。さすがに無い気がする。

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