2014-10-12

日記

 9時くらいに起きてセキュアプログラミングの勉強する振りして夜の向日葵とか聞いてて昼になってうどん食べて午後は自由論のレポートやってた。講読範囲の内容をまとめ直して書くというのをだらだらやっていたら6時間くらいかかった。夜は松屋で食べて、お酒飲んで帰ろうとしたけど断念して帰ってきてすぐ寝た。
 J.S.ミルは自由論の第二章「思想・言論における自由」で、権威(多数者に基づく)が少数者の意見を抑圧しようとするときの構図について二つの仮定をおいて議論している。一つ目は少数者の意見が正しく、権威の意見が間違っている場合。この場合権威は自らの無謬性を仮定しなければならないが、そのためには自分たちの意見に反論するための自由を認めることが必要な条件であると述べている。さらに、異端者に思想の自由を認めないということは、社会全体で一般的になっている意見に異を唱えることを認めないということであり、これは思想の固定化を招き、市民に活発な思想的活動が期待できなくなってしまう。
 二つ目が、権威の意見が正しく、少数者の意見が間違っている場合。権威ないし多数者は自らが持つ正しいと思われるような意見だけを固持することになるが、意見に対する反対説を認めない形でそれを保持し続けるのであれば、その意見を真に理解しているとは言えない。自らが正しいと信じる事柄であっても、反論について検証しそれを論駁する態度を持たなければ、意見は一面的になってしまう。次いでミルはキリスト教の教義の在り方や、日常における人生訓などの格言について触れ、真理は事柄として知るだけでは不十分であり、自分で吟味し追体験しなければならないと主張する。
 ミルは上記二つの仮定で、一貫して「常に議論に対して開かれた態度を持ち、自説について吟味し続けることが必要だ」という意味での自由を議論しているけど、じゃあそもそもミルのここまでの意見が妥当なのかって考えると、よくわからない。あまりに正しいことを言っているように見えるから、うまく行き過ぎていて違和感がある。彼の議論はただひたすらに同じ事を述べていて、たまに反対意見を織り交ぜ、史実を引用して説得力を高めている。あんまり否定するべきところもなくて、まぁそうだよなはいはい、で終わってしまいそうなんだけど、それだといけないのだということに気付いたりした。
 つまり、自由論という文章を一度読んで「ああこれは正しいものだ」と一息で受け入れているようでは、彼の主張を何ら理解したことにはならないのだと思う。彼の議論を吟味し、疑いを持ち、反駁を考え、「常に議論を開き考える姿勢を持ち続ける」ことについて常に議論を開き考える姿勢を持ち続けるという、自己言及的で内省的な思考活動を深めることで、ようやくミルの主張の起源となるような動機や感情に触れることができる。そうして心から納得する形になってようやく、読者の成長・能力の一つとなる、ということみたい。
 で、こういった「議論の追体験」というのは、もっと一般化すれば文学の体験と同じだろうし、哲学という枠で捉えるならば、原典を読んで哲学者の直接の言葉を追うという行為に他ならない。その哲学者が記した文章を実際に追って、そこで繰り広げられる主張や反論を丁寧に読み解き、かつ読者自身がそれらを再度吟味することでようやく、哲学者本人の頭の中にある思想の一端を理解することが可能になる。概説書や訳書ではなく原典を読むことの重要さというものは、もちろん主張の正確な理解という点にもあるが、それを書いた瞬間の哲学者の感情に近づいていくという点がもっとも大きいのかもしれない。たとえば文章の調子や強調の置き方を見ていると、ミルがどこを強調したくて何に文句を言いたのかが伝わってくる気がする。これは、要約としてこの人はこういうことを言ったんだと聞かされるよりも体験としてリアルなものであって、実感や理解の強いものになる。正確な理解だけでなく(この点はいくらでも教授が強調していたけど)、理解の強度という意味で、原典を読むことが大事なのだ。それをこのレポートでようやく気付かされた。もう遅い部分もあるんだけど、でもまだ学生生活はしばらく残ってるし、時間をかけて本を読もうと思った。
 ミルの議論に踏み込まずにトートロジーしてレポートを仕上げるという良くないことをしてしまった気がする。これでいいのか。卒業できるのか。こんな文章書いて恥ずかしくないのか。恥ずかしいです。

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