2014-10-18

日記

 昼前に起きて近くのうどんを食べて喫茶店?に行って時間潰して松屋で夕飯食べて勉強して勉強した振りしてゲーセンで遊んで帰ってきてアニメ見て寝た。セキュスペはどうやったら受かるのかよくわからない。困った。もっと過去問やればよかったのかもしれないけど。
 あ、そうだ、折れてしまったのではないかと思ったんだ。意地を張って他人と分かり合おうとして、それでもうまくいかなくて、自分というものをこれでもかと前面に出した結果として、もしかしたら折れてしまったのではないか。折れてないと言うのは簡単で、折れたというのも簡単だし、それらのことをこうだと決めてしまえばそのどちらにもなり得るような曖昧な認識で、本当の自分がどちらに適応しているのか見定める必要はあるけど、おそらくは大した印象付けもせずに意識した方に傾いてしまうのだろう。考えるだけ無意味だ。自分がどういったことを考えているか・どういったことを感じているかについて余計な項を加えて自己暗示することなど、過ちを重ねるだけなのだ。自分がどういった人間であるかという自己認識は、客観的に得られるような印象の問題だけでは片付かなくて、自分がどういったものの見方をするか・感じ方をするか・考え方をするか、いろいろあるけど、的確に把握するのはとても難しい。把握して言葉に落とし込もうとするのはもっと難しい。言葉というものは曖昧で、目的に応じて自由自在に姿を変える。他人からお前はこういう人間じゃないかと乱暴に枠を放り投げられたとしても、ああもしかしたら自分はそうなのかもしれないと安易に思い込むことができる。それは占いに似ている。抽象的な形容は、あっさりと人の認識にまとわりついて、それが正しいものだと耳元で囁いてくる。その心地良さに自分の輪郭を塗り固めて一つの型を作り、自分はこういう人間なのだと主張するのは誰だってできる。誰だってできるからこそ誰もがしたがるのかもしれないし、それが他者から与えられた誰にでも当てはまる枠だったとしても、何もないよりはましなのだと自分に言い聞かせることもできる。もっとも、簡単に言ってしまえば自分にとっての自分と他人にとっての自分は違うのであって、他人にとっての自分は主張によってしか変えることはできないけど、自分にとっての自分は別に何でも構わない。自由に作ることができる。それが自己流の定義であれ、他者流の定義であれ、占いによって投げられたテンプレートであれ、誰も批判しない。係うは(変換できなかったんだけど何これ)、自分が納得するかどうかという問題だけだ。拘らなければ、何も悪いことはない。それで私は、あんまり納得できていないという話で。
 人が何をどれくらい考えているか知りたい。しかし、あなたは何をどれくらい考えているのですかと訊くのは当たり前に憚られる。さらに言えば、考えていることを何でもかんでもひけらかすような態度を美徳としない人もたくさんいる(私がすべてをひけらかしているというわけではないし、人に話したくない/ここに書きたくないこともたくさんある)。人の頭の中を知って私はどうしたいんだろう。安心したいのか。何も安心できないと思うけど。というか明日試験なのだけど、私はどうしたいんだろう。だらだらと言葉を連ねる自慰行為など、ほどほどにしないといけないのにね。
 ああ、安心できるのか。ああこのひとは人間だ!という発見をすることによって、街を歩く人たちがロボットでないことを理解できるのだから。その辺の現代的なナイーブ人工知能よりも単純な受け答えをするような人はおそらくそうそういないだろう。だから安心したくなったら、周りを歩いている人がロボットじゃないと確認したくなったら、たとえば最寄り駅までの道を訊けばいいし、薬局がどこにあるか知っていますかとか、それらしい質問を用意しておいて、角を曲がる度に尋ねるのだ(もちろんそんなことはしない)。いや、これは極端な話で、もっと私に引きつけて言えば、私は、人間が人間らしい葛藤を持っているか(いつから人間は人間らしい葛藤を持たなければいけなくなったのか)という趣旨の同質性を他者に見出したいだけなのだろう。つまり私は自分が人間らしい人間であるという勝手な定義と決め付けを自尊心の一部としていて、これと同じ思想を他者に見出だせるかどうかを押し問答したいだけなのだ。はいすっきり。

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