2014-10-30

日記

 昼前に起きて3限に頑張って行った。UBWを終わらせるために7時くらいまでがんばっていたので寝不足気味。大学のあとはアルバイト5時間。帰ってきてNLPに関する情報集めと読書。PFIの人すごい。すごいというか格好良い。
 本をたくさん読んでいるから知識があるというわけでもない。記憶は時間が経てば忘れ去られる。気がつけば頭から抜けている。おそろしいことに、場合によっては自分がそれについて忘れてしまっているということにすら気付くことができない。私は、たくさん本を読んでいることが偉い、といったような短絡的な決めつけをする傾向がある。これはたとえば、とにかく子供に勉強という姿勢を取らせたい母親がもつ勉強至上主義的な態度に近い。当たり前の話だけど、読書だって勉強だって中身が伴っていなければ仕方ない。文章を目で追ってなんとなくわかった気になって本を読んでも、後になって内容が説明できないようでは意味がないし、事項を丸暗記してテストが終わったら全て忘れてしまうようでは勉強していないのも同然だろう(言い過ぎか)。
 それで私は自分が常日頃からあまりにも本を読まないことに辟易しているのだけど、その原因は費やす時間があまりにも少ないからというのもあるし、読むのが遅いというのもある。集中力がなくて気付いたら他のことをしている(脇道に逸れて一時間経っていたとか!)ことも多い。おそらく物事の優先順位付けが下手なのだろう。というよりもそもそも、本を読むということ自体の(時間配分的な)優先順位があまり高くないくせに、その下準備には大した時間がかからない(お金はかかる)から、たくさん本を買って積んでしまうのだろう。
 まだ読まれていない本は、読まれる理由がないから読まれない。その本に書いてあることが本当に必要になったとき、読まれる。だからたとえば卒論に必要な本や論文はちゃんと時間を割いて読んでる。これは卒論という目的があるからだ。おそらく今後も、論文を書くために必要な論文を読むという行為には時間を配分できると思う。
 つまり、私にとって本を読むという行為は手段でしかない。たんに「この本おもしろそう、読んでおくと良さそう」という理由で本を買っても読まないのはそのためだろう。「本を読む」という行為を単体で見れば、その優先度は高くなりにくい。「おそらく知っておいたほうがいいから」という動機では読むという実際の行動にまで届かない。一方で、「その本から自分にとって必要な知識を探して得たい」という明確な目的を持っているときは、「その本を読む」という行為の優先度が高くなり、ページをめくるに至る。その本に書かれている知識が必要だからこそ、きちんと内容を吟味し、議論の全容を把握しようとする。
 そして、さらに言えばその必要性は、その本から得たことを消化して第三者に公開するような状況になったとき最も高くなる(私にとっての話ね)。論文は他人に見せるし、何らかの発表をする機会なら理解を正確にしなければならないし、質問にたいして間違ったことを答えるわけにはいかない。(ちょっと話が飛ぶけど、)その分野で飯を食いたいのであれば、その分野のことはおそらく何でも知っているべきだし、聞かれてわかりやすく説明できなければならない。お金や社会的立場を確保するようになったりすると、責任のようなものまで帯び始める。恥をかきたくないから頑張る、というだけではなくなる。間違えると信頼が損なわれる、権利が失われる、機会が与えられなくなる。正しく、新しいことを言わなければ、成果にはならない。これはちょっとどころじゃなく大変なことだ。あ、んー、でも、私としてはもしかしたら、責任がつきまとっていたほうが身体が動くかもしれない。さらに言えば、家族の生活がかかっていれば、たぶんもっと頑張れるのよ。うるせえ。
 好きだから真っ先に優先させて時間をかける、というほどの動機は、私は何に対しても見出だせないのだ。いろんなことがしたい、どんなことにも興味がある、と言えば聞こえはいいけど、そんなこと言っていたら何も始まらない。だから私は今まで何も始められてこなかった。純粋な意欲も、それとともに人を動かすであろう責任も、ほとんど持ち合わせていなかった。
 長い停滞が続いて、これからようやく自分を駆り立てることになるであろう機会が増える。研究する人の卵だの、仕事をする人の卵だの、言い方はいろいろあるけど、そろそろ「自分のやることが将来の自分の生活に直結する」という状況になりつつある。恐ろしいことだが、楽しい。今までよりは身体が動いてくれる。やらなきゃならんという気が起きてくれる。はい、がんばりましょう。だらだら書いていたら、もう朝の5時だけどね。
 (ここにも自分以外の人間が出てきていて、私という人間においては私の中だけで完結した知的活動(この表現こわい)は進行しにくいのだなぁと複雑な気持ちになった。よくよく自分の性格を考えれば自明なことだったけど、改めて認識した。課題は、自分に「発表する機会」を強いることで自分を前進させることができるという仕組みを、もっと回転させること。私は、学問的な活動においても、自分一人だけでは満足に成長できないのだ。甘んじて受け入れ、謙虚に積極的にならないといけない。情けないなぁ。)(この段落、途中で書いたけど、話の流れ的に余ってしまった。私は私個人として独立して何かを成すことはできない人間なのだ、ということを再認識したのだけど、これからは少しずつ前向きになれそうな雰囲気もある(研究や仕事という意味で)。でも私は、研究や仕事のためではなく、身近な人のために、という意義が欲しくてたまらないのだ。そうでないと、いつだって一人で折れてしまえる。ひっそりと生を終えることが許されてしまう。しかしわかりきったことだけど、身近な人がいてくれることそのものを自分のために目的化してしまうのは、あまり良いこととは言えない。それは相手の意思を無視した自己欺瞞的な在り方に違いないからだ。これも今まで何度も考えてきたことだし、忘れないようにしなければならない。)

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