2014-11-28

日記

 寝るのが遅くて、本を読んでから朝7時くらいに寝て、昼すぎに起きて研究室に行って、輪読会に参加して、夜は小学校の同窓生と?普通に友達と、と表現すればいいか、食事をしていた。同窓会をやろうということになって、もちろん言いだしっぺが私だしやらなくて後悔しそうなのも私なので、幹事をやることになって、忙しくなりそう。どうということはないだろうけど。自分のことがよくわからない。こういうこと言い出す人間だったっけ。でも小学生のときは文化祭の委員とかよくやってた。変わったと言われればそうかもしれないしもともとこんな性格だった気もするし。わからない。いつもここで、やっぱり自分は焦っていて、何か達成感の得られることをしないと落ち着かない状態になっているのかもしれないと疑ってしまう。大学に入ってからの変化で増えた。高校のときはそこまで執着していなかった。逆に言うと高校の生活で思い出がなかったことに後悔しているのかもしれない、あまり能動的に何かをするということがなかったから(たぶん)。それで私はもう、この4年間で結構いろんなことをやったと思っているし、後悔もしていないし(結果論としていろいろ言うことは可能だけど)、進路で困ってもいないし、不幸があったわけでもないので、全部ひっくるめて見ればまぁいいんじゃないのということで話は終わる。幸せは過去の自分から押し付けられた。
 どうしてこんな話を書いたのだ。おそらく、こうやって美化して書いても、納得のいかないことが頭の端っこに引っかかっているからだろう。急に話をひっくり返すけど、自分は自分の人生を後悔したくないという理由で、一切の後悔をしたがらない。あったとしても肯定的に捉えてそれを無視する。人前で、たとえ文章の上であっても、過去を振り返って悔やむことをしたくない。失敗を晒したくないのと心理は同じで、格好の悪いところを人に見せたくないのだ。だからすべてを美化して肯定的に書く。記憶と経験は、見ためが良かったとしても、内部の骨格がひどく歪んでいる。
 物語は媒体を変えて繰り返されるという話、文明の歴史がいくら長いとはいえ、その時代を生きる人々はみな平等に同じ経験をすることになるのであって、過去の時代の人々の経験を受け継ぐわけではないのだから、物語も同じように消費される。同じ主題を違う舞台で繰り返すくらいのことをすれば、すこし過去を顧みる人だけがこの話は何十年何百年前のあの話と同じだと言うだけであって、おおよそ誰もその主題の陳腐さに文句を言わない(その個人はその主題を初めて経験するのだから)。いくら歴史を重ねても、誰もがみな自分の人生を初めて経験している。うん。当たり前のことを書いた。精神史は繰り返される。そこから発生する社会の歴史も同じように繰り返される。眠くなってきた。
 喋るのが好きなのか、表現するのが好きなのか、考えていることを表明して承認されることを望んでいるのか、理解されないことが怖いのか、いろいろあるけど、でも言いすぎること書きすぎることは時に良くない結果を生むのだし、弁えるべきだ。これも半年に一回は言っている。

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