2014-12-02

日記

 起きたら昼だった。歯がたくさん抜ける夢を見た。何かに急かされていた。夢が何らかの精神状態を反映しているというのが、覚醒状態でいくらでも嘘をつけたのだとしても、抑圧している感情があるということの証左になるかもしれない。ひどい話だと思う。どうにもならなくて夕方まで布団に入っていて、家を出てつけ麺を食べてアルバイトに行って日付が変わる頃まで作業していた。雑務を済ませたりもした。帰ってきてコンビニ食を済ませてビール飲んだら眠くなった。私の一日は一体何なのだろう。どう考えてもリズムが狂っているしアルバイトで一日が終わっているし、自分のための時間というものが確保できていない。不適合だけど、強制的に参加しなければならないような集団的な責務がないから問題が顕在化しない。なんとか生きていけてるし、その自由が許されてしまっている。馬鹿な話だなぁと思った。そうそれでも、何かこなさなければならない用事があるときは逆に疲れてしまうのだけど。明日は講義とアルバイト、明後日は講義と勉強会、明々後日は研究室行って友達と飲み、土日はSECCON、というように、なんだかんだ予定はあるのだ。今日くらい休んで最低限のことだけを自分に許すのだっていいじゃないか、という。でも卒論が全然進んでないよね。そういえばそうなのだ、あと2週間もかけずに全体の草稿を終わらせたいのだけど。まぁ難しいかなぁ。

断片

 ある日突然、住んでいる街から避難しなければならなくなった。理由はわからない。ただ私は家族と一緒に荷物をまとめ、必要なものを買い付け、駅で電車を待っていた。多くの人がおり、みなそれぞれできる限りの私物を持ち出しているようだった。乗るべき列車が指定されており、行き先も知らされていなかった。死ぬのかもしれないと思った。戦争が起きているわけではなさそうだったが、少なくとも私が住んでいた地域に危険が迫っていたことは確かだった。居残ったら死んでしまうような。
 逃げていた。降りた駅、それは駅というよりも貨物用のプラットホームだったが、そこからまた違う列車に乗り換えるよう命じられた。だんだんと気温が低くなっていることから、北に向かっていることはわかった。そうして3日ほどの行程ののち、私たちは北海道東部あたりに着いたらしかった。
 同じ街で暮らしていた数千人ほどの住民が次々と到着していた。広大な平野に白いテントが遠くまで立ち並んでおり、私たちの家族にも一つが宛てがわれた。食料や水、灯油など、最低限の物資は支給されており、ここでしばらく暮らせということだった。一週間かも一ヶ月かもわからないが、危機が去るまでということらしい。いや、二度と戻れないのかもしれない。今はまだ、誰にもわからないのだろう。
 テントから三十分ほど歩くと区画が終わり、幹線道路に出る。臨時でバスが運行され、近くの小さな町への足として提供されていた。町には郊外型の大きなショッピングセンターがあり、大半の用はここで足りた。あとは何をして生活するかだが、大人は招集されて町にある工場や役場などで仕事を与えられた。国が人件費の半分を支援するという名目で様々な企業が外部委託として仕事を持ち込んだため、働き口には困らなかった。子供は町の学校に通わせられることになったが、学校のプレハブ増築や教員の募集など課題が多く、十分な教育環境は整備されなかった。高校生は週に三日だけ学校に行くことになった。生徒の数に対して教室や教員が足りないため、登校日を減らし分散させることになったのだ。だから私は、週に四日は暇を持て余してショッピングセンターで遊んでいた。
 そうして一週間をまず過ごした。状況は変わらないようで、住宅区画の端に建っている大型のプレハブ(おおかた対策本部ということだろうけど)には大勢の人間が出入りし、なかにはマスコミの姿もあった。報道発表は未成年には伝えないように規制されており、大人はそれぞれの職場で最新の情報を入手しているらしかった。父も母も、今どうなっているのかということを教えてはくれず、私の質問にただ曖昧に微笑むだけだった。街に帰りたいと強く思うことはなかったものの、わずかな不安はあった。それでも家族が欠けたわけでもなく、連絡を取れば元々いた街の友人にも会えた。住居に不便は感じたが、特段に苦労せず生活できた。
 そう、それで、私はある日学校で、何が起きていたか真実を知ることになる。
 みたいな感じでどうですか。まだ何も考えてないけど。

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