2014-12-12

日記

 寝たのが11時くらいで、起きたのが20時くらいだった。朝になってエンジェリック・ハゥルがやりたくなって、ひと通りやってから寝た。何をしてるのだか。夜は卒論をだらだら進めていた。進まないけど。集中できないなぁ。だめだ。
 とりあえず中心に据えて扱う本はだいたい読み終えた(議論をまとめながら)。他に周辺的な論文が5本以上あったり、批判だの論点だのまとまってる本(洋書なんだけど!)も読む必要があったりして、今でも卒論としてまとまったものは書けるけど、さらに発展させるためにはまだ読みに徹するべきかもしれない。今のところはまだまだ基礎的な部分の理解がまとまりつつある段階で、これからさらに具体的に既存の理論に適用する議論に進まなきゃいけない。どうするんだろう……。基盤となる理論を明確に形作る段階に留めるだけだと具体的に何が良くなるかということが提示できないし、結局何をどう活かすかという指針が得られないままになってしまう(そもそも自分の考えていることでどこにどう風穴が開くかということがわかっていない)。このあたりの指導を教授に乞うほうがいいかもしれない。年明けに学会に応募するための原稿にしなくちゃいけないし……。
 ともかく今夜は夜を徹してだらだらしている。日曜は選挙も勉強会もあるし区切りのいいとこまで進めないと……。
 もう一つ、私は今まさしく記号や言語を解体して再構成するための理論化をやっているのであって、こうしたものの見方に慣れてくると、だんだんと自分の経験を解体してその理論の具体例として理解しようと試みる癖がついてくる。おそらくこれは自分の世界観や自然観といったものに今後長くついてまわることになるだろう。でも、そうした見方が事実を正しく評価するために役立つものだとしても、私という人間がのんびりと生きるためにはちょっと解像度の高い眼鏡なわけで、長く掛け続けていれば疲れてしまう。だからいずれは、もっと感性的というか、たとえば文学のように、分解されない意味や人格がありのままに表現されるような、まとまりがあって柔らかいものに触れて生きたいとも思う。私が今扱っているものは、やっぱり無機質で、冷たくて、生きた心地がしない。正しさしか許されないようなものではなくて、間違ってもいいんだよとか難しいこと考えなくていいんだよとか、もっと純粋にそのままの形で表現して受け入れられるようなものが(心の平穏には)望ましい。ということを思いました。

断片

 彼の中には何人もいた。多重人格というわけでもなく、彼はつねに彼としての人格のままでいたものの、いつも自分の中にいる人格と会話をしており、会話の内容をノートに書き出していた。その行為は私以外の生徒にとっては異質なものだったのかもしれない。私は、私だけが、そのノートに言葉が増えていくのをときどき横から眺めていた。内容はとりとめのないもので、何が書かれていたかは思い出せない。
 おそらく彼は何かを「持て余して」いて、それを具現化して取り出していたのだと思う。彼の頭の中にはたくさんの言葉があって、その言葉は複数の声で語られていた。人数は多くなく、たまに五人目が登場するといった具合だった(各人の声は色分けされていて、そういえば五人目の声は緑色の文字で書かれていた)。耳鳴りが止まないのと同じように、彼の世界はつねに誰かの声で溢れていた。でも彼はそれに慣れきっていて、ノートに書き出すという仕方でうまくコントロールしていた。
 私は、彼が自分だけの世界を持っていることに漠然とした羨ましさを抱いていた。同じように自分の世界を持ちたいと真似をしようにも、私の世界は広がろうとしなかった。ノートを開いても誰の声も聞こえない。自分の問いかけは宙に浮いたままになって外から聞こえてくる声にかき消される。私にとって、自分の内側に何か確固としたものがある、というのはまったく想像のできないことだった。自分の頭の中には自分の声以外に何もなく、ほとんど空っぽみたいなものなのだ。それに気付いてからというもの、私は彼のノートを見なくなり、恐怖や畏怖といった感情が彼に対して浮かぶようになった。彼についての記憶はそこで終わっている。

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