2015-01-08

日記

 朝遅めの時間に起きて製本された論文を回収して正午のぎりぎり前に提出した。昼は大学の友達とご飯食べて、午後は講義受けて用事済ませて、夕方は友達とお茶して寿司食べて、夜はアルバイトに行ってた。よくよく考えると人とコミュニケーションをとっていた時間が珍しくそれなりに多かった日かもしれない。
 ということで卒業論文は無事に提出できてほっと一息、でも今月処理しなくちゃならないレポートも多いし、勉強したいことも多いし、ゲームをやってる暇も旅行をしている暇もそこまで確保できそうになくて、本を読んだり書いたりするのに割く時間が多くなりそうな予感で、ゆっくりできるのは2月に入ってからみたいだ。そんなにたくさん休んでも仕方ないから受け入れるしかないのかもしれないけども、どうにも心が休まらないというか、常にプレッシャーにさらされていて精神的につらくなってきているので、どこかしらで回復したい。そんなにうまくいくものでもないか。
 本ばかり積まれていく。買いすぎ。収納しなきゃと思っているのだけど部屋を見渡しても収納できるスペースが見当たらない。そりゃ六畳一間なので見つかるはずもなく、大きな棚を仮に手に入れたとしても置く場所がない。書籍の類は春になったら研究室の机に全部移そうかと計画しているけど、もちろん全部移せるわけじゃないし、そこまで空間が確保できるわけでもないし、あとから並びたがる本もあるだろうし、もう少し我慢すべきだ。それとも実家に送りつけるべきか、云々。
 やっと落ち着いて日記が書けるというか、気が急いているとこんなこと書いてる場合じゃねぇさっさと寝なきゃみたいな感覚にどうしてもなってしまって、長々と書くことができなかった。いやだからといって整ったテーマでものを書くわけではないので、然るべき雑さを備えた文章にしかならない。読み返しすらろくにしないので言葉の使い方もちぐはぐ、重複も読みにくい修飾も多くなり、こんなことしてるなら人に読まれる文章を書くべきだという意思が強くなる。
 そうそう、そういう意味では、卒業論文は公的な責任を持たなければいけないものだったので、難しい内容の割にはきちんと読めるように丁寧に書いたつもりではあった。それでも推敲は一度、二度くらいの最低限しかしていないので、まだまだ時間を書けて文そのものを良くできたら全体としてより良いものになっていたと思う(自明な文)。
 推敲をしていたときに考えていたのは、文章というのはいくつかの段階があるということ。まず表現したいことを頭からそのまま取り出して並べただけの文章。これは出力そのままなので文章として読まれる形に整えられていない。頑張れば読めるかもしれないけど、誤読を容易に招いたりしちゃう。これは基本的には書かれるべきではないタイプ。次いで、ひとまず誤読の可能性を排除した文章。文構造として整形してあって、読める。でも固さがあったり、読んだときにテンポが悪かったりする。だから次の段階として、そうした固さを取り除くことで読んだときに感触が悪くないようなものがある。今回の論文はなるべくリズム感の悪さを排除するように頑張ったけど、それでも努力が足りなくて、修正の余地のある文章が残ってしまった。でさらに上の段階として、流れるように読めるように語や語順が選んであって、読み返すことなく一息で文意が掴めるような文章、というものがあるべきで、ここまで来ると(手段として)文章を書くことが仕事にできそうな印象。一般向けの(学術的なテーマでも?)著作をたくさん出しているような人はこれくらい書けるのかなって感じだろうか。もっと言うと読んでて心地よく馴染んでくれるような綺麗な文章が書けるのが理想なのだけど、そこまでいくと世に何人いるかくらいの少なさじゃないかなぁ。うーん、ただ読みやすいだけの文章じゃなくて、読んでいて美しいと思えるような文章が書きたい。絵や音楽だけじゃなくて、文章で表現することも芸術の範疇に(ときには)入りうると思うのですよ。
 読みにくいけど芸術方向に尖った文章だなぁと思ったものに佐々木中の『九夏前夜』があって、私は意味が頭に入ってきてくれなくてただ文字を眺めるだけで終わってしまった(というよりもきちんと読み通してない)。

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