2015-01-15

日記

 午後からアルバイトに行ってレポートを進める、作業は全くやらなかった。夜から友達と会って食事とゲーセン。本屋に寄って帰ってきて家でもレポート。というよりももっときちんと勉強しなおしてレポートを書き直しましょうねという試み。認識論に関する英語のやつ。わからない単語多すぎるのだけどよく見ると担当の教官と興味の分野被ってるのにまじめに聞いたり質問しに行かなかったの(でも私が英語使えないせいなんだけど)がかなり後悔というか来年度以降も継続的に受けるようにして鍛錬せにゃならんなぁとか考えてた。でも日本語ですらちゃんと勉強してないことが多いんだしいきなり英語でやっても困るのでは、そんなことないか。違う言語でも意外とわかったりするし。
 すごくシンプルな話として、自分が理解した通りの内容になるように言葉で補う、ということが何をするにも重要なのであって、本を読んだら(理解の再現がしやすいように)メモをとるとか、講義資料には書き込みをするとか、なんでもかんでも書き出して記録しておくということが、理解を再取得するためには必要になるのに、でもそういった視点での教育はされてこなかったし、教育の重要性というのはそういった点を指導することにあるのではないかと思ったのだけど、そんなもの自分で何とかしろという話だよね。むしろそういった最適化をしてこなくてもここまで何とかやってこれた自分を肯定すべきでは、いやしかし一度勉強したことを忘れるという事態は、理解した情報を書き出しておかないせいで再取得できなくなってしまっていることに由来しているのだから、できれば改善すべきだ。復習しない習慣が悪いとか言う前に、自分が理解した形跡を残しておくだけでずいぶんと変わる。本に直接書き込みはしたくないから、本を読んだらメモを取るとか(卒論のときはできたわけだけど)。電子媒体だと、なぜか不思議と読み返さないし、時間が経ってから「あーあれまた読んでみるかー」と気まぐれに手に取ったりする可能性が少なくなりそうだし、理解そのものも再現しやすくなければならないだけでなく、手段として反復に至るまでの経路が短くなければならない。そのくせ読んだときの自分のメモって意外とわかりづらくて、メモという名前の汚い字の羅列を追っても何もわからなかったりする。だからやっぱり要旨だの要約だのを書く訓練というのが最も大事で、遠回りしているように見える反面、これが物事を簡潔に精度よく理解するのに最適な方法なのではないかと思う。今更気付いても遅いのだけど、いやこれからは何をやるにもインプットをしたらアウトプットをしないとねと思ったり、言葉尻ではハウツー的な単純化に陥ってしまうのだ。ああやだやだ。
 自分の思考様式や習慣に改訂が入ったり新しい発見があったりするのはまだ若い証拠なのかもしれない。脳みそを鈍らせることは自分が最も怖いことのひとつなので、できれば避けたい。かといって数独やって頭を動かした振りをする老後を送りたくはないが、ああそうだ哲学は老後にとっておくとか将棋は老後にとっておくとか、そういうのあったじゃないですか、人生が終わる頃になっても、たぶん私は自分のやりたいこと/やらなくてはならないことを見つけられると思う。もっと単純な話、いろんなものを見て考えているから(少なくともそういった振る舞いになるような規範性のもとにあるから)その反応としてぐるぐるしているんだろうな。ただそれだけ。一般論として(私はとつぜん一般論を話したがる)、入力情報はほどほどに多いほうがいいし、それが単純になりすぎてもいけないのです。思うに趣味の固定化はそういった流動性のない入力を招きそうな気がする。同じことばかりしていたら脳みそ/身体はその行為/情報に最適化されるのだし。人間は使い勝手の良いスポンジ、奴隷制が復活すれば順風満帆(スローガン)、あ、そういえば、ワードマップの『ナショナリズムグローバリズム』(新曜社、2014)を買ったんです、いつ読むかわからないけど、私はそれよりも言語哲学大全読んだり知識の哲学読んだり存在と時間読んだりしなきゃいけないんです。読みたい本を整理しなきゃ。春休み(夏休み)はたくさん本を読むぞって意気込んでほとんど読めないという休みを何度繰り返したか。
 ともかく週末までは今かかりきりになっているレポートを終わらせることに集中しなきゃ。

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