2015-03-28

日記

 日記。午後起きてアルバイトに行って作業して本読んで作業して帰ってきて漫画を読んで寝た。やさしいセカイの~とぼくは麻理の~を読んだ(後者は3巻まで)。けっこう対極のテーマというか、同じだと言えば同じだし、違うと言えば違うんだけど。
 アルバイトの帰り道いろいろあったので、東京暮らしはもういいかな、と考えていた。かといって実家がいいかというと少し違う。でも私には無理をして一人暮らしをするよりもやりたいことがあって、でも無理をして実家から(無理ではないしかつて何年も通った道なのだけど)通うのは面倒だなとも思ってる。わからないなぁ。
 私という人間が社会と合う部分も、社会と合わない部分も、どちらも自分でよくわかっていると思う。いざ会社員として働けと言われても私は自然と働くことができると思う。それについては何も困らない自信があるし、学部卒となった今では仕事に贅沢を言わなければ人並みに生きていけることもたぶん保障されていて、ここまで投資してもらった成果は出ている。だけど私が社会と合わない部分について、我慢をするというか、見捨てるというか、抑圧しなければならないということには抵抗がある。いや、大抵の人間はそうなのだから、と諭されたとしても、私はそこで我が儘を言ってしまう人間に育ってしまっていて、その意味では一層合わない。そこで捨て去らなければならない何かは、自分の人格を象っているに違いないのだから。
 考えが足りない。一時期は添い遂げる相手さえいればそれがゴールのように思えていて、いやそうしたら後の人生どうするのか、まったく考えていなかった。いわば手段が目的化していて、自分の人生の根幹に他者を据えないとどうしようもない、という考え方をしていた。その良し悪しは置いといて、まあそりゃあどんなに面倒でも自分の幸せは自分だけで決められるようにしておこうよ、という中途半端な挫折があって、今に至る。
 生意気な言い方をすれば、誰かには認めてもらえるだろうし、誰かには支えてもらえるだろう。もし居なくても死にはしないだろう(死にはしないだろうと思っておけば本当に死にそうになったときでも自分を騙したままにできる)。そう、だから、いろいろ決めなきゃいけなくて、ここで本当に決まってしまうことを考えると、いよいよ死期っぽいものを感じる。ふつうの幸せって本当に幸せなんだろうなあとか思うと悲しくなる。ああでもまだ1年くらいはあるんだ。この1年頑張ってどうなるかで決めればいいじゃない、と言われるに違いないのだ。
 自分の性格や感性を救う方法はわかるけど、それは自分が生きたい仕方とは限らないし、自分が幸せになれる仕方とは限らない。今考えていることの困難さを表現するならこうかもしれない。

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