2015-10-28

日記

 午後過ぎに起きて、すこしゲームを進めて、大学を経由して学友さんたち(適切な呼称が思いつかないままだ)とご飯を食べた。23時半くらいまでだらっとして、帰ってきて麦茶を飲みながらサクラノ詩を終わらせた。終わった。何時間くらいプレイしただろう、よく覚えてないけど、30時間くらいだろうか。一週間以内に終わらせたい、引き伸ばしたくない、と思っていたので少し安心した。感想を書こうかなぁ。ネタバレはありません。どちらかと言えば、私が自分について何を考えたかということについて書くのだと思います。だから感想というよりも自省録めいた何かになるに違いない。

 まず書きたいのは、私が創作物に触れた感想を表現するときの態度について内省があった(あったのか?)ということ。私は情報の受容をわりと感覚的に済ませてしまうみたいで、とくに文字情報を読みながら掘り下げた想像をすることが苦手らしい。要するに頭が悪いということなんじゃないかと思うけど、たとえば物語の主題として何が表現されているかということを読み取るのがとても下手で、およそ書かれている通りのことを想像するだけで済ませてしまう。おそらくノベルゲームという媒体(の文章の弱さ)に慣れすぎてしまった側面もあると思う。自分が文章を書くときにも、背後に何らかのテーマを潜ませるということができた経験はない。もっとも、試みたこともない、が正しいのかもしれないけど。哲学の文章を読むのも苦手だし、文章そのものを集中して読み通すのも苦手だ。……言い訳なのでほどほどにしておきましょう。

 ゲームと並行して一週間ほど頭をもたげていたのは、学問って何なのだろうということだった。それもつい先日なんとなく落ち着いたというか、自分の学問的な態度(ないし学術的な体系への態度)が凝り固まっていたのをうまく解す方向に傾いてくれたので、これもまた少し安心している。まだ不安定なのは間違いないけど、この方針に考え進めれば前向きになれそうだということを思ったのだ。そのことについて次に書く。
 哲学についてはすでに納得があって、2015-10-02や2015-01-10で書いたことと今考えていることは変わっていない。進歩していないと言えばしていない。哲学はこういうものなんだ、という印象で固まったままだ。でも自分はそれについて科学哲学的な検討をほとんど加えていないことがわかっていた。ようやく必要性が飽和して、先日ローゼンバーグ『科学哲学』を買って、今読んでいる。知らないことだらけというわけでもなく、断片的な知識に糸を通しておかないとなあ、みたいな気持ち。難しくてわからないけど。
 哲学から広げて学問一般の理論について考えてもやはり同じで、理論が理論であることはどういうことかという話やら、それは物語と(虚構性・概念体系という観点から)どう違うのかという話やら、よくわからないと言いながら考えていた。最終的には、もし仮にそうした体系的な何かが論理的に綺麗な形で定式化できたとして、その定式化された何かがどういった運命を辿るのかを知るためには、数理論理学をやらないといけないのかなと思った。
 人間の言語現象が概念を生じさせて、それらの概念から構築された理論があったとして、それらが認識的なフィルターをかけて世界を写しとると見なしたとき、その表現力や相互情報量や妥当性をどのように測ればよいのだろうか、ということも常々考えていて、そのためにも数学的な何かが要ると思っている(この点についてはまだまだ曖昧)。こうした考えは全体論的な下敷きが前提になっているけど、そういった下敷きが妥当かどうかも検討が足りない。でも私は、もはや全体論的な何かを捨て去れそうにない。しかしまあ、とても抽象的だから、何かを説明するのには向かない。便利な道具というだけだ。それは自然選択や目的論も同じだった。
 概念という認識的な記号を挟んでいる時点で「あいまい」なのではないか、と考える。そのとき、人間の認識を挟まなくても正しいと言えそうなもの、たとえば数学的な真理から組み上げることができるものだけが妥当な体系であって、人間の概念体系はそれらに下支えされなければならないとする。……う、わからない、考えられない。というよりも数学的な真理って人間がいなくても存立できるんだろうか。たとえば人間がいなくても公転の周期は法則に従っている。じゃあいいのか(いやそれって数学的な真理ではないような、いや物理法則は……じゃあ物理法則が表しているものって一体なんなんだ……)。だから結局は、数学的な真理と呼ばれるものも物理学的な世界の構造に還元できると思わなくもない。だとしたら、世界を記号で表現するってどういうことなんだろう。……ぐちゃぐちゃになってしまった。ごめんなさい。
 ひとまずの指針をまとめれば、科学哲学と数理論理学をやろうということだった。対応する目的を挙げるなら、概念的な意味での理論の姿を知ること、論理的な意味での理論の姿を知ること、という感じだろうか。できれば数学ももう少し頑張って、(前の段落で書いたように)人間の概念と数学的な何者かが切り離せるのかどうかを考えたいなあと思った。あるいは物理学的な何か。これはもうずっと言ってるけど。

 じゃあサクラノ詩の話をしようね。抽象的な話ではありますがその点でのネタバレを避けたい人は読まないでください。まず私は芸術について関心があった。「芸術って何ぞ? 心や自然との関係は?」ということについて、作中では二つの立場が表明されていたように思う。強い神と弱い神という書き方をしよう。その二つは両立する(あっさり書きすぎたけど、議論は要る)。人物としては、周りから見た彼女が強い神のほう、彼が弱い神のほう、という立ち位置なのだろう。そして弱い神の存在がそのまま他者性に繋がっている(というか独我論的な対象の話に繋がるのか、と後で思い直した)。端的にまとめればこんな感じなのかなぁ。強い神についてはそのまま私の考えていたことに繋がると思う、たぶん。数学と物理。
 幸福については作品の一番最後に書いてある。この点については長々書いていたんだけどすべて消してしまった。弱い神と芸術と幸福についての話、わかった気はするのだけど、まだうまく言葉にできない(作品で書かれていることと合致しているか怪しいからやめとく。そういえば冊子でアフォーダンスについての言及があったのも思い出した)。ああでも、独我論的な(スピノザ的な?)永遠性については納得できたというか、やっぱりそれが前提にあるのだということはわかった。
 そういう意味では(?)書き方が直接的すぎるような、と思わなくもない。下手なギミックもないし、登場人物はみな他者だ。だから終わった後の印象は、とても素直なゲームだな、ということだった。もちろん私はそれが悪いとは思わない。
 作品の概観みたいなものを最後に。商業媒体であることの問題点については良い作品に触れるたびに考えてしまうけど、サクラノ詩はあまり欺きがなくて私は好きだった。欺きがないって書き方は良くないな。表現が難しいけど、話の展開のさせ方がおおよそ誠実だと思った。うーんこれはダメなんじゃないかなぁと思った部分は、商業的な要素だから仕方がないか、あるいは開き直りとして回収されている雰囲気があった。この点についても肯定的に評価したい(えらそうな書き方だ、「よかった」ということです)。個々のストーリーについては時間が経ってプレイし直したときに書くと思う。年明けとか年度末とか落ち着いた頃だろうか。
 ピアノの音が好きなので、すばひびに続いてBGMにピアノの曲が多いのは嬉しい。OP・ED曲も良かった(monetさんの歌声はH2Oの頃から好き)(あとはネタバレ防止で控える)。サントラを待望している。絵の演出も良かったと思う。絵画がどこまで出てくるか気になったけど重要な絵はちゃんと出てきていて感動した(つり乙的な)。あとキャラクターがかわいい。かわいいと思う。かわいいと思う。かわいいと思う。あ、演出強化パッチって何が変わっていたのだろう? 文字表現かな? 余裕があったら調べてみる。
 全体として不満な点もなく、シナリオも良かったと思うし、良い作品だったんじゃないかな。エロゲーにコメントらしいコメントを残したの久しぶりだ。業界は斜陽だと言われ続けているけど、それでもまだ良い作品はちらほら出ていると思うし、その絶対数が全盛期ほどじゃなくても細々でも続いていってほしい文化だと思う。できれば私もうんぬん。
 そしてまた、悔しさが。

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