2015-11-15

日記

 日曜日。昼過ぎに起きた。パンとコーヒーと洗濯。自然言語の論理や意味論のワークショップがあるからと出かけて話を聞いていた。英語がわからない。何が話したいのかは微妙にわかる。3割くらい。自分がいつも考えているようなこととは少し離れているけど、話題としては面白いなと思った。夜は駅の近くのスパゲティが食べられるお店で食べた。最寄りに戻ってぴこぴこするお店に寄って帰ってきた。何も手に付かず、今考えていることについて、今考えられないことについて書こうとした。わからない。精神的に不調だ。身体もすこし優れない。
 私にいったい何ができるのだろう、とばかり思う。自分が自分であるからこそ無意味に感じてしまうのではない。他人のしていることを見ても(見ても、というのは研究の話で、論文を読んでいての話なのだが)そこに意味があるようには見えない。私が同じようなことをたとえ程度を上げて作り上げたとしても、同じように無意味なものを生み出してしまうことにしかならない。自分がほとんどすべての学問的なものから何も見出だせない精神状態になっていて、そう、何が正しいのかわからないのだけど、何かが特別正しいということはないのだから、何も解決しえない(論文に書かれている内容の内部的な整合性や妥当性などは最低限保証されているが、それはいたって普通のことだ)。そのことをどれくらいの人が意識しているのかはしらないけど、結局学問的な営みはより妥当に見えるものに漸近していくことしかできず、突然に革新的な正しさが現れることはなく、私はその無力感みたいなものに苛まれているのだと思う。繰り返すけど、この無力感は個人的な能力の無さに由来するものだと私は考えていない。むろん、私の考えにネガティブな偏向がかかっていて、ここに書かれていることがほとんどすべて(論理的にも)間違っている可能性も大いにあるものの。
 つまらないなと思ってもおそらく先行研究との重複がなるべく無いように選ばれたテーマなのであり、だからこそつまらないのかもしれず、私たちは今や枯れた大樹(らしき模型)の端の端に立っていて、まだ小さな枝が伸びるように努力をするか、もう諦めて地の底に落ちてしまうか、できることはそう多くない。あるいは、もはやそうするしか残されていないのだけど、近くの枝のすべてを見て回って、その上で少し根本のほうに戻って、よしここは切り落として大丈夫だなと大きな切断面を作り、そこから一回り太く綺麗な枝が新しく伸びてくれるように育てあげるのだ。そういうことができる人はそう多くないが、それより他に(私が納得する形で)できることなどない。いや、できない。時間と頭が足りない。あと樹の比喩はやっぱりそんなに上手くないと思う。
 1ヶ月くらい同じことばかり考えている。落ち着いたかなとも思ったけど混乱は続いている。論文を書かなければという焦燥ばかりがある。知ったこっちゃない。生きていけないのなら仕方ない、とも思う。自分の納得のいかない形で論文を書いたり、他者に迷惑をかける形で(くだらない論文を書いたら読んだ人に無駄な時間を消費させることになるのだ、ということを人はどれくらい考えるのだろう)続けていこうとするのは、望ましくない。ああでも、生きていけない状態になるのもまた、他人の迷惑になってしまうのだ。困った。

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