2015-12-15

日記

 午後から用があったから昼前まで寝ていた。コーヒー飲んでアルバイトの作業をして大学に行って(そういえばいくらかお腹の調子が悪かった)、圏論の本を読んで(あとで書籍部で知ったけど最近出た『圏論技法』のほうが丁寧な気がする)、食堂でカレーうどんを食べて物理の勉強会に出て、からあげ食べて帰ってきた。夜は何もせずWA2の千晶ルート終わらせてた(そろそろやる気を出さないとなあと思っていた)。
 金曜の発表に向けて軽くメモを残そう。あるシステムが言語理解をしていると見做せるために必要な最小限の能力を規定することはそもそもできるだろうか。用法基盤的な観点に従うなら(あるいはひろく認知文法的な観点なら?)、語彙だけでなく文法もすべて文化的な慣習として構築された知識であって、語彙と文法に境界はなく段階的である(それはおそらく慣習性の程度によって連続的に変化するものである)。文法、たとえばアスペクトの構文を理解していると判断するためには、そこで表現される個々の動詞の性質(知覚動詞や状態動詞など、どの意味クラスに入るか)を知らなければならない。
 うーん、文法ってなんだろうな。格・定性・人称・数・極性・態・時制・相・法って書いてある。やっぱり最小のセットはこうならざるを得ないような気がするけど、そもそも文法範疇は通言語的な普遍性を持たない(たとえば日本語には定性や数を示す文法がない)。いわゆる文法範疇に含まれない能力として、共参照はこれに含まれていないように思われるし、省略の補完もできなきゃいけないし、簡単な演繹的推論も必要だろう。そうして文法範疇から外れている言語能力(に見えるもの)を次々に挙げていくことはできるだろうけど、そこには「非言語的な能力」と「語彙に依存した知識」が含まれていくように思える。
 立ち戻ろう。考えたいことは、「あるシステムが言語理解をしていると我々が認めるためにシステムが持っているべき最小限の能力を規定することはできるだろうか」だった。つまりそのような能力を検証できるQA的なタスクによって検査することで、他の多くの複雑な問題を解けるようになるか、ということだ。もっと具体的に言うと、既存の困難なタスク(談話関係の理解や、数学や理科の文章題など……)を解くシステムがdomain specificで拡張性がないと批判されるとき、「どのようなタスクでも持っていなければならない能力」と、「上乗せ的にタスク特有のものとして持っていれば解けるようになる知識(そしてそこで上乗せされる知識は既存の解決システムが持つ知識よりもシンプルで少なくなる)」という切り分けができるようになるだろうか、という話だ。
 2つに切り分けようとするのが間違っているのかもしれない。おそらくより妥当なのは言語知識に段階的な分類を入れるべきで(しかしその分類はコネクショニズム的な還元ができることが前提で)、その検討を真っ先にすべきなような気もする。

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